<雨織り>
「雨…か」  窓の外、灰色の空を見上げながら巧巳は呟いた。  窓辺に腰掛けながら、手のひらで雨粒を受けるような格好でジッとしている。  耳に響くその音に良い記憶はない。  むしろ否応なしに気分を下向きにさせられる。  ため息が漏れた…。 「あんにゅい…」  ゴツっ! 「──ッが!」 「なぁに黄昏たフリして掃除さぼってるのかしらねぇ?」  悲鳴さえ上げれない、点の打撃による痛み。  振り返ればそこにいたのは箒を持った梗。  ちなみに箒の持ち方が掃除をする時のそれとは異なる。  わかりやすく言えば柄の先端て突くのに適している。  現に巧巳の後頭部を容赦なくえぐった…。 「ちょっと休憩してただけだろっ!」 「10分そこらで終わるような掃除に休憩も極刑もないわよ」 「極刑ってなんだよ!」 「死刑の事よ」  梗は親指を下向けながらサラリと物騒なことを言う。 「んなこと訊いてんじゃねぇよ!」 「るっさいわねぇ。つべこべ言わず身体動かしなさいよ。あたしは部活に行かなきゃいけないんだからっ!」 「だったらてめぇが倍働け! 俺はそんなに急いじゃいねぇんだよ!」 「じゃあ急がせてあげようかしら?」 「ほう? どうやって?」 「決まってるでしょ」  そう言って梗は箒を両手で握り直す。 「上等だ…」  それに習うように巧巳も箒を逆さに持ち直し、正眼に構えた。  お互い、不適な笑みを浮かべながら緊迫した空気を膨らませていく。 「ふぅ…」  と、不意にため息が巧巳と梗の間を割って入る。  二人はその方向を見た。  ため息の主は荒良木 円だった。  先ほどの巧巳と同じような格好で雨空を眺めている。 「雨…か」  円は憂いを帯びた瞳をゆっくりと閉じると、小さく肩を落とした。 「…おい…荒良木もさぼってるぜ…」  巧巳は梗にひそひそと耳打ちする。 「…さっさと俺ん時みたいに頭突けよ…」  ゴズッ! 「ばはっ!!」  巧巳の顎が突かれた。 「円。どうしたの?」 「ん? ああ、すまぬ。掃除の途中であったな」  円は窓から離れると、壁に立て掛けていた箒を手をのばす。  が、目測を誤ったか、指先で箒を突き、床に倒してしまう。 「…ふむ…」  円は自分の手を少し寂しそうな目で見つめた。 「…なにか悩み事?」  普段は見せない円のそんな姿に、梗が心配そうに声をかける。 「大したことではない」  円は軽く笑って見せるが、瞳にある憂いの色は消えていなかった。  その色の深さに、これ以上踏み込んで良い物なのか、梗はためらう。  そんな梗の戸惑いに気づいてか、円は苦笑した。 「雨の日は少々傷が疼いてしまってな」 「怪我?」 「昔の話じゃ。もう痕も残ってはおらぬ」  そう言いながら脇腹に手をやり…。 「雨は…色々な事を思い出させてくれる」  再び視線を灰色の空に向ける。 「そう、色々なことをな…」  鬱蒼とした森の中…。  昏い昏い水の気配が辺り一面を覆っている。  対峙する二つの人影。  一人は刀をまっすぐ正眼に構えている男。  もう一人は女…。  長く絹のような黒髪は、時折雲の合間から差し込む月の光を受け妖しい艶を放っている。  風が吹き、木々が揺れた。  二人の間に木の葉が視界をふさぐように舞う。 「はああぁぁっ!」  男が湿った大地を蹴り、女との距離を一足でつめる。  振り下ろされる刀が木の葉を弾きながら女に向かう。  ギィーン!  しかしそれを女は爪で受けた。  爪と刀とのつばぜり合い。  視線が交差する。 「ちぃっ!」  男は女の腹部に蹴足を食らわし距離を取った。  再び睨み合う。 「女の妖か…ちっ、やりにくいぜ…」  男が吐き捨てるようにぼやく。  女だろうが子供だろうが妖である以上、それは人に害をなす存在。  現にこの女の妖は幾人もの人間を殺めている。 (だからこその俺の仕事なんだがな…)  男は柄の感触を、確かめる様に刀を握り直す。  月が雲に隠れ、周囲の暗さを濃くする。 「ふっ!」  息を吐き地を蹴る。  女も同時に出た。  袈裟懸けに振り下ろされる刀を爪で受け流し、逆の手で男の目を狙う。  男はすんでの所で首をよじり、その爪を交わした。  そしてそのまま身体をひねらせ、刀を水平に走らせ女の脇腹を狙った。  捌けるタイミングではない。  視線が交わる。  相手を殺そうとする男の目と、死を覚悟した女の目。  雲から月が姿を見せ、二人を照らした。  ズッ…! 「くっ…ああっ!」  鈍い肉を裂く感触と、どこか嬌声に似た悲鳴。  女は膝からゆっくりと地面に倒れた。  傷口に手をやると、熱くぬるりとした物が溢れて止まらない。  痛みに意識が遠ざかるのを感じた。  すぐ目の前には自分を斬った男の足がある。  長い時間を生きてきたが、死ぬのは意外とあっけないものだな…と女は胸の中で独言つ。  同じなら意識を失ってから止めを貰いたいものだと苦笑した。  再び月が隠れる。  僅かな光を失った昏い森の中、男の顔はよく見えない。  せめて自分を殺した相手の顔くらいは覚えておこうと思ったのに。  意識はもう霞がかり、視界もあやふやなものになりつつあった。  ポツ…ポツ…と冷たい何かが身体に降り注いできた。  それが雨だと気づくのに少し時間がかかった。  そんな悪戯な水滴に遠ざかっていた意識が無理矢理呼び起こされる。  女は笑った。  意識を失ったまま、楽に死を迎えることはできないらしい。  苦しんで死ね、と…天はそう言っているようだ。  男はジッと女を見つめていた。  降り注ぐ雨に、熱くなっていた身体が冷やされていく。  刀身に付いた女の血糊がゆっくりと洗い流されていく…。  男は濡れて滑りやすくなった柄を握り直し、刀の重さを確かめる。  長いだけで…何もない一生だった…。  自嘲じみたことを考えながら女は目を閉じた。 「…もったいねぇ…」  そんな男の呟きは、女の耳に届いていなかった。  二人が斬り結んでから3年の年月が経っていた。  男──桐馬は刀を捨て、代わりに鍬や鋤を手に田畑を耕していた。  その側には人としての名を貰った妖が伴侶として付き添う。 「蘭、見てくれ。こんなにでかい大根が育ったぞ」 「うむ、今年はいつになく豊作じゃのう」  余所者だったにも関わらず、その仲睦まじさと働きぶりに周囲の目も温かく、二人は今や村でも評判の鴛鴦夫婦だった。 「大根の味はもう慣れたか?」 「正直、肉の方が好みではあるがな」 「そうか。ならまた狩りにでも行くか」 「この前の猪は村の者達も喜んでおったのう」 「はは、あれはでかかったからな」 「それより、今日はそろそろ帰ろう。じきに雨が降る」  蘭は脇腹を押さえながら空を見て言う。 「疼くか?」 「うむ」 「嫌な傷を作っちまったな…わりぃ」 「言うな。この傷なくして今の儂らはないのじゃ」 「そう、だな」  桐馬は竹製の籠に大根を入れ背負うと蘭の手を握る。 「帰ろうか」 「うむ」  微笑み。妖として生きていた時には持ち得なかった表情で蘭は頷く。 「…桐馬…」 「ん? どうした?」 「今宵は雨じゃ…傷以外にも…その…疼く」  蘭は足下に視線を向けながら恥ずかしそうに言った。 「ああ、わかってる。というより、雨じゃなくても、いつだって俺はかまわない」 「うむ」 「にしても…雨音で気分が乗る…か。妙な癖作っちまったな」 「仕方あるまい…お主の温もりを愛おしく感じた時にずっと聞いておった音なのじゃ」 「違いねぇ。正直、俺も同じ気持ちだ」  二人は微笑み合いながら歩き出す。  幸せというものがあるのなら、それは間違いなく今この時の事を言うのだろう。  屋根を叩く大粒の雨の音。  風に煽られた滴は時々窓から小屋の中に吹き込んでくる。 「激しいな…」  桐馬は布団の中でぽつりと呟いた。 「…ん…そうか? いつもと変わらぬと思うたが…」 「…? なんのことだ?」 「先ほどまでの事ではないのか…?」 「俺は雨のことを言ったんだが?」  その言葉に蘭は顔を真っ赤にさせ、頭から布団をかぶった。  そんな行動に桐馬は笑う。 「わ、笑うことはなかろうっ…」 「はは、悪い。でもお前の仕草があまりにかわいくてな」 「…3年じゃ…」 「ん?」 「この3年で儂はずいぶんお主に変えられてしもうた」  布団から顔半分だけのぞかせ桐馬を見つめる。 「お主と共に歩んできた3年は、これまで生きてきた時間の無駄さを思い知らされる」 「そうか…」 「いつまでも続けば良いな…この時間が…」 「ああ…」  優しく頷きながら桐馬は蘭を抱き寄せた。  蘭も額を桐馬の胸に当てながら身体の力を抜き、その温もりを静かに感じる。  二人はわかっていた。  そのささやかな願いが叶わないことを。  人と妖。種の違いを乗り越えた二人だが、どうしても越えることのできない時間の壁。  生きる長さの違い、これだけはどうしようもない。  わかっているからこそ、その時その時を、今を大切に生きている…。 「子供…」  桐馬の言葉に蘭が顔を上げる。  暗い小屋の中にいてなお、互いの顔がはっきり見える距離で視線が交わる。 「種の違う俺達でも…子供は作れるんだろうか…」 「…桐馬…?」 「俺達に子供ができたらどんな子だろうな」 「わからぬ」  言いながら蘭は微笑む。 「わからぬが、試すのも悪くはなかろう」 「産んでくれるか…?」 「産むことができるのなら、それほどの幸せはない」  桐馬の胸に再び額を寄せ、背中に腕を回す。  そんな彼女の身体を桐馬も優しく、しっかりと抱きしめた。  けど二人の幸せな時間はそう長く続かなかった…。  互いが刀を挟んで対峙するのは次に雨の降った夜のこと。  出会いと別れ、始まりと終わり…。  …そこにあったものは雨…。  それはまるで二人を祝福するように…呪うように…。  今も昔も変わらず、目に映る物全てを淡く染めていく。 「結局、出来なんだな…」  円は空から視線を教室に戻すと下腹に手を当てながら巧巳を見た。  もっとも、巧巳はと言えば先ほどの梗の突きで倒れたままだ。 「デキ…?」  梗が首を傾げると、円は目を閉じて笑う。 「なんでもない。元々叶わぬ願いであったのじゃ」 「? ? ?」 「巧巳を起こして掃除の続きをするとしよう」  円は言いながら箒を手にし、巧巳に近づいていった。 「…? 変なの」  梗は窓の外を見て呟く。  雨はやむ気配を見せることなく、降り続ける。  今も昔も変わらない、歌を織り次ぎ続けている。
−了−